エッセイ

影山さんの友人 林田さんに頂いたエッセイです。 

将棋の楽しみ方

論語に『これを知るはこれを好むにしかず、これを好むはこれを楽しむにしかず』とあります。将棋の指し方を知っている方は大勢いると思いますが、将棋の楽しみ方について考えてみましょう。将棋は相手があって指すものですが、それを基本として、将棋の楽しみ方にはいろいろあります。

 一、        見て楽しむ

 観戦することです。名古屋の鶴舞公園の週末、将棋盤や碁盤をはさむ二人の周りには、かならず見ている人がいます。自分でやることが楽しければ、人がやるのをみるのも楽しいのです。ゴルフの好きな方がゴルフを見るのが好きなのと一緒です。見るときのマナーは助言しないことですが、終局後あれこれ感想を言うこと、質問することは構いません。将棋に関する記事を読み、棋譜を読むことも観戦に似た楽しみ方です。

 二、 研究する

実戦を反省し、今後の対局に備えて、変化に疑問のある箇所を検討し、本を読んで勉強することなどです。レッスンプロの話では、実戦だけでは強くなれない、本を読まなければダメだといいます。下手の考え休むに似たりと言いますが、他の人からいい情報を吸収しなければ上達は望めないということだろうと思います。研究方法は人によりいろいろですが、序盤の研究は本を読みながら盤上に駒を並べる、中盤の研究はプロの実戦譜を並べる、終盤の研究は詰将棋、必至などクイズ的な問題を考えるというのが一般的です。次の一手というクイズ的な問題には序盤、中盤、終盤の問題があります。一日の研究時間はプロなら数時間以上ですが、アマの場合は短い時間でも毎日やれば十分です。研究の要点は問題意識を持つことです。

 三、        実戦

 さて、いよいよ実戦ですが、身近に相手がいない場合は、道場や将棋の会に行くことになります。ネットで対戦も可能です。盤数は一日3局が限度と言われています。それ以上やっても頭脳が熱くなり、余り意味がないことが多いためです。勝負どころでちょっと考えるということをするだけでも一局に30分はかかりますので、一日10局というのは5時間以上の時間を費やすことになります。30秒将棋もありますが、基本的には一局に30分から1時間程度がお勧めです。盤数が増えて指し手が雑になったら、しばらく休憩する方がいいのです。負けてすぐ「もう一番」と言う人は余り強くなりません。アマの場合でも感想戦をした方が上達に役立ちます。勝負の後は興奮が残りますので、心を鎮めて次の対局に備えるか、飲みに行くかということになります。

 将棋の魅力

 日本には一千万人を超える将棋ファンがいると思われる。多忙なため日ごろは将棋から遠ざかっていても指すこと自体はできるという人を含めればもっと多いかもしれない。将棋の魅力の一つはその難解さ、奥深さにある。高段者になればなるほど将棋の難しさを感じることが多いようである。その難解さの要因はどこにあるのだろうか。

 一つの要因は、駒の動きの多様性にあるといってもいいだろう。それぞれの駒の特徴を踏まえて活用することにおいて、技量が問われることになる。これはチェスなど他国の同様のゲームにも通じる。この点をさらに多少掘り下げれば、将棋の駒の動きはチェスに比べて機能が少なめである。そのため戦いはすぐに始まらず、陣形を作ることに若干の準備を要する。将棋の難解さのもう一つの、さらに決定的といってもいい要因は、取った駒を使えるということである。これにより駒が突然盤上のある場所に出現する可能性が生じる。これは日本将棋の特徴と言われている。駒を取ったり取られたりして盤上の風景が変化するという点ではチェスも同様だが、駒が忽然と出現するというのは、まさに音本的な相違と言わなければならない。

 将棋もチェスも駒が動くために、先を読むことが非常に難しい。駒が動いて状況が変化することを映像的に理解することが簡単ではないのである。将棋の場合は、さらに持ち駒が盤上に出現する可能性を含めるため、複雑性がいわば立体的な様相を帯びる。盤上にない駒が「可能態」として存在し、それが盤上に「現実態」として存在する駒の動きを制約する。

 相手の持ち駒によって自陣の駒の動きに制約を受ける、たとえば、敵が角を持っているので打ち込まれないように金銀の動かし方を注意しなければならないといったことである。但し、持ち駒は直接敵駒を取ることはできず、一旦は盤上に投じられなければならないので、それを盤上に投じる時間もないままに負かされてしまう場合は無用の長物になってしまう。

 実際の将棋で、敗者の側の駒台はこぼれんばかりになっている場合がある。持ち駒を使う機会を逃さないということは大切な心得の一つだろう。

 自分と相手の持ち駒が増えることは変化の複雑性が幾何級数的に増えることを意味する。

 ■将棋の難解さの最後の要因は、形勢判断の難しさである。プロならば複雑な変化を読む技量は伯仲しているが、読んだ何手か何十手か先の局面の形勢をどう判断するかに差異が生じる。将棋の難しさは詰まるところ、良いと思った局面がそれほどよくなかった、つまり形勢判断を間違えたということに帰着するようである。

 将棋というゲームの社会学的な特徴

 囲碁・将棋と並べ称されるが、囲碁と比べた将棋の社会学的な特徴はどこにあるだろうか。共に賭ける要素は皆無とは言わないが少ない。運の入り込む余地が少ないためだ。一対一で盤をはさんで戦うという点でも似ている。

 将棋道場に行くと感じるのは、将棋は庶民的で、最も金のかからない娯楽として愛好されているという事実である。囲碁を愛するのはおそらく社会的には割合に上の部類に属する人が多いというイメージがある。それに比べると将棋は「縁台将棋」ということばにも表れているように、どこでも盤駒さえあれば気楽に遊べて、道具も決して高価ではない(高価なものもあるが)。紙や布で盤を自分で作ってもいいぐらいである。駒は木製かプラスチック製で概して軽い。駒もいいものはいいが、道具が結果に影響することはない。道場の料金は全国一律に一日千円で、子供や女性に割引のある場合もある。また、行けばすぐに指すことができ、資格や身分を問われることはまったくない。勝っても負けても何の損得にもつながらない。

 道場で指している人に共通するのは将棋自体に真剣になっていて、結構熱くなっていることだ。世間話などをする例は少なく、ひたすら指し、ひたすら勝ちを目指す。勝てば喜び、負ければ悔しがることが多いが、勝っても負けても若干の会話が生じる。「あそこで間違えた」とか「最初から苦しかったね」とか二言三言交わすのが通常である。将棋自体が対話であり、「こっちはこう指すけどあなたはどうするんですか」という問いの投げかけ、「それにはこういう答えが用意してあるんだよ」というような回答の意味合いを伴っている。「棋は対話」といわれるとおりだ。ことばで会話しなくても将棋で会話できるということで社交の下手なシャイな人にも向いたゲームである。

 将棋に勝つには闘争心は必要な要素だろうが、闘争心以上に注意深さや相手の心に注意を払う繊細さが必要である。これは囲碁にも共通するが、自分勝手なことは通用しない。また、普通インチキはありえない。正々堂々と盤上で自己主張し、結果は必ず出る。良い手は良い結果をもたらし、悪い手は悪い結果をもたらす。そういう意味では正直者に向いたゲームである。ある種のカードゲームのように手の内を隠しておくということはない。それは囲碁も共通だ。

 我田引水な言い方ではあるが、将棋を好むのは正直でまじめな人が多い。

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